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10.4.12

小磯城

行って来ました

海抜は14Mです


もうね、、人を誘っておいて
海抜の話ですよ・・・
頂上は、42Mです
近くの人は上がれるけど、ここまで走るのは
死ぬ気でやれば、何でも出来るから大丈夫
って、城に来たのに海抜の話から始まり
めずらしいな、、と思いながら
登りました
頂上には、当時の頂上部分しか残っておらず
・・・
まぁ、景色はいいですけどね
富士山は見れず、残念
そして、本日行きたかった理由の1つ
資料館
ですが、、、展示品の撤去とやらで
休館
落胆している主人をよそに、自分は行きたかった
吉田茂邸へ行きました
そしたら。。。
剪定作業のため、入れず・・・
ガーーーんッ[たらーっ(汗)]
ですよ。
今日は散々なので、とりあえず海に出て
叫びましたよ
嘘ですが・・
そんな気分です
小磯城の小磯は、こゆるぎの磯という意味で
古くからこの辺りは鴫立沢で知られるように、海に近く
山険しい風光の地で、余綾郷と称されていました
相模湾に沿った海岸は、こゆるぎの浜と言われてます
ここを有名にしたのは、そう明治時代
政治家、財界人、文人などが競って別荘を建て
西小磯にある伊藤博文の滄浪閣はその代表的なもの
行きたかった吉田茂邸は、小磯城の出城跡の部分なんですよね
実は・・・近くを流れる血洗い川。。
幕末、明治時代に潤って~やっぱり歴史的価値は
あると思うんですよね・・・
因みに、「湘南」って相模の国の南にある海岸地帯のことなのに
支那から来た人が、湘江の南部(湘南)に似ていることから
湘南と名づけたのだけど、それって明治時代のことなんだよね
動乱の明治時代をここの地でいろいろ決めていたと
思うと、妄想も広がりますがね・・・
だからね逗子、鎌倉、葉山は湘南と言わないと思う
言わないでくれという感じ・・まぁ、TV、雑誌や在チョンがそうやって
言うのだけどね
湘南を城的に言うと、北は岡崎城、遠藤城
東は、藤沢より村岡城、玉縄城(妥協して)。西は黒岩城、土屋城
真田城までかな
そうそう、小磯城ね
小磯城が初めて築かれたのは平安末期
当時、湘西地方にゆるぎない勢力を誇った、波多野義通
��藤原秀郷の子孫)は、中村氏、三浦氏などの勢力と
巧みな婚姻関係を結んで一族を各地に分知させた
ここ小磯は義通の三男大槻小二郎高義の嫡男八郎義秀の
所領となし、義秀はこの城をかまえ、小磯氏と名乗り
以後、小磯氏が城主となりましたが、いつの間にか
小磯城は滅亡をとげてしまう
室町中期に入り、戦国の世の兆しが見える頃
関東地方に長尾景春による大乱が勃発
この乱は、関東官僚山内上杉家の家宰となるはずだった
景春は、叔父の忠成がこれにとってかわったので
古河公方をはじめ、反対派の官僚勢を集めて旗揚げした
そして小磯城には、越後の五郎、同四郎の兄弟が
立てこもり、相模川沿いに小沢(こさわ)城、溝呂木城と挙応した
��477年(文明9年)3月、駿河鎮定にあった太田道潅は
反乱軍制圧のため、溝呂木、小磯城の攻略にとりかかり
溝呂木城にあった溝呂木正重は城を持ちこたえられず
自ら火を放つ。道潅の兵勢は勝ちに乗じて小磯城を包囲
��月18日、小磯城は激しい戦場の修羅場と化して
夜中についに落城
越後の五郎と四郎は道潅の軍門にくだる
この越後なるものは、おそらく越後長尾氏の一族ではないかと
考えられているそうな
その後の小磯城は不明だけど、小田原北条氏によって
高麗山(こうらいさん)城、王城山城と共に支城として管理されてものだろう
と、神奈川県の城より
ここも多く血が流れたので、塚が多いんですよね
その塚は、小磯城の城兵と道潅の兵の戦死者の墓と
伝わっています
主人は横穴古墳は撮らなかったので
なんでかと聞いたら
「墓は撮らないんだ」
そうな、、なるほどね。あくまで城跡なのよね
大磯マンホール

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